昭和42年01月27日 夜の御理解



 先程から久富先生と話したことですけども、信心をだんだん分かってくるという事は、このどの様な事の中にでも、例えば四代様のお言葉の様に、全ての事を実意をもって大切にとこう仰る。全ての事を実意を持って大切にさせて貰えるという事は、神様のご都合という事が思い込めなければできませんですね。自分の都合の良い事は大事にするけれと、自分の都合の悪い事は、もう実意をもってどころか、もう実意とは反対の心でそれを粗末にいたします。
 ですから神様のご都合という事がです、大事にされなければならない。それを例えばそれは神様のご都合ですよと言われたら、どげなご都合ですかと反発したい様な気持ちがお互いの心の中にあるんですけれども。椛目の場合はですね、それが言わんですむんでないだろうかと。何故って私自身がそこを頂いておるからです。例えてその例を色々話したんですけども。
 私が丁度、足がちょいちょい立たなくなりましたですね。もう完全になえてしまうんですから、もうどうにも処置なしですけれど。とうとうその後に於いて、その事にわざわざ医者に診てもらった訳でないけれども、学院行きの事について、病院に参りましてから、その医者に問いましても本当の原因はとうとう分からんなりでございましたが。それは別といたしましてですね。
 あのこりゃもう、これでしもうたとか、こりゃどうなるかという事が全々なかった事ですね、私の心の中には。もう神様のご都合、その神様のご都合もです、もうはっきりと答えを出すなら、もうおかげを下さろうとする神様のご都合以外にないと確信しておった事です。もうこれは本当にそうでした。ですからもう、その一つの具体的な、腹がせく御都合となっていった事は。
 いよいよ私にご結界の、いわゆるこの神勤をお許し下さるんだなぁと、もう座りきり神様のご用にお使い下さるんだなぁといった様な事もご都合の一つの大きな理由でございましたと自分で思うんです。そして学院行きの事が決まりましてから、病院に参りまして、いよいよ糖尿病賢臓病といった様な事が診断される様になりましたら、その頃から全々私の足がこう少し今日足が重たいなといった様な事もないという事ですね。
 けれどもそこには腎臓病糖尿病が取って替わっておるという事です。だから、それとても、どうしてどうしてというのではなくてです、もうこれも絶対神様のご都合だと、そのご都合の事を皆さんにお話できませんけれども。久富先生とのう、例えば私が、あの時腎臓であったという事が、こういうおかげの元になっておったろうがの。こういう事にもあっとろうがのと。
 そして一年後の今日は、その腎臓病がなくなって糖尿病が、今度、少しひどくなったという事になっておる訳です。その糖尿病だって実をいうたら先生こげなご都合のあるとばの、もういっちょん、さぁ糖尿病じゃからと言うて不平も不安もあったもんじゃなかろがの、神様のご都合として有難く頂いていく以外なかろがのと言うて話した事です。ですから私は、お互いの上にも同んなじ事が言える。
 神様のご都合としてですね、そこんところを私は、頂かして頂く事に全てを実意を持って大切にしていかなければいけないと思うですよねぇ。これは久保山先生達の事でも話したんですけども、本当に久保山の家の上においても、久保山先生第一にはご自身の事においても、又椛目のお広前を中心にしての事においても、大変な神様のご都合であったなぁ、しかも私共が分からして頂ける事は、この事もやはりおかげ。
 この事もやっぱその為であった。この事もこうでなからにゃいけない理由があったんですね、と言うて話した事でございますけどもね。神様の大変なそれこそご都合なんです。もうそれはどういうご都合かと言うと、おかげ以外にないのですから、どげな事でもお礼を申し上げる他ないのです。今、ご祈念にかからせて頂く前に、久富繁雄さんがお届けになりましたが、今朝方お夢を頂かれた。
 それに弟さんの勇さんが盲になっておられる、そしてこの、部屋の出口から出ろうと思って手さぐりにしておられる。くにかさんがこちらから出らにゃんばのち言うてからこう、じたばたしよんなさる、勇さんはそこを手さぐりで出ろうとしておられる。その後には、ちゃんと親先生が立ってござったという様なお夢であったというのです。私は思うんです、信心する者は肉眼をおいて心眼を開けよとこう仰る。
 心眼を開かなければ神様のご都合と分からんのです。また、どういうご都合か実は詮索しなくても良いのです。肉眼で見ると、どうしてこういう様な事がですけど、心眼で見ると神様のご都合でありおかげでありという事に分かってくるのですからね。ですからその心の目が開けてくるという事の為には、先ず自分が肉眼をつぶさなければいけない。いよいよ吾無力であり吾盲であると自覚にたたなければいけない。
 ここ一寸先が闇の世であるという事は、分かる事は盲になったと同じ事なんです。ここ一寸先が分からない、いわば闇の世に立っておる様なものであるという事が分かる時に、始めて心の目を開かなければ立ちゆかんのである。心の光を頂かなければ、もう何時もが暗隅なのである。だからどうでも光が必要であり、心の目を開かなければおられないのであるという事になってくるのです。
 信心を段々さして頂いていく内にです、神様がいうなら本当に目の前が真っ暗になる様な、又勇さんの場合でいうならばです、はぁここはどうする事が本当だろうかと思うて、今、手さぐりにしよんなさる様な事があるらしい。これも只今ご祈念前にその後に奥さんのくにかさんが参って見えてのお届けなんです。それは繁雄さんの話を開いておられる訳でもなんでもないです、その後でしたから。
 そしてその繁雄さんが頂かれたその事を裏付けされる様なお届けをされるのです。主人が今、こういう様な事でいうならば五里霧中のところを通っております、私はかくが本当だと思うんですけれども、それを主人にかくという訳には参りません、どうぞおかげを頂きます様にというお届けがあったんです。いかに神様のこの、綿密な働きというものを感じん訳には参りませんでしょう。
 だから現在、盲で、手さぐりをしておられるという事も有難い。手さぐりをしておる間に勘も強うなる、目開きよりもいわば十のおかげを頂かして貰えれるところのおかげなのですから、その盲になっておるというその事、そこんとこを大事にしなければいけないというのです。目の前が真っ暗になっておると言った様な、その事をひとつひとつ疎かにしてはならない。
 そこんところを、しかも実意をもって神信心をもって大事にしていかなければならないという事になるのです。そこに次の世界が開ける。いわゆる次元の世界が開けてくるのです。ここに至らなければ、信心頂いとるものの本当の値打ちというか、幸せというのはあり得ないと私は思うです。肉眼ばっかりで物を見たり聞いたり感じたりしたりしてる間はです、それは信心のない者も実をいうたら同じ事なんです。
 これから先なんです。信心しておる者と信心のない者の親のある子とない子の違いを感じさせて頂くのは、本当に。いわゆる久富繁雄さんの、今朝から頂かれておられる事、くにかさんの只今のお届けの事をです、総合してみて、先程から久富先生と神様のご都合という事について色々話合わせて頂いたんですけれどもです。それを本当に神様のご都合じゃうと思いますという様な事では駄目です。
 泥棒に取られた、怪我をした、もうやっぱ神様のご都合じゃろと思います。大難を小難にお祭りを頂いたつじゃろうと思います。いう様な事では割り切れない、そんなこつ、それも良いですけどもです、神様のご都合だとして本当に思い込まなければいけないという事。ですからその事に対して本当に思えこれから、その事に対してお礼が言わなきゃおられないという事になってくる。本当にこりゃどうするじゃろか、まぁだこの位な若さで足がなえてしもうて立たんごとなってから。
 さぁこれから先どげな難儀な事になるじゃろかと言うて、私が不安にも感じなかったら、心配もしなかった。勿論医者のいの字も言わなかった、いやむしろこれはいよいよ有難い事になってくるな、いよいよ、雑念を払うてご神勤一途にご結界奉仕がでけるな、その様な事こそあれ、困ったなぁといった様な事は。ほんなごて、それこそみじんにもなかったですから、本当に。それは神様のご都合だと思い込んどるから、そういう風に安定が生まれてくるのです、安心が生まれてくるのです。
 どうぞひとつ皆さんがですね、まず私は本当に一寸先が闇の世であるという自覚、障子一重がままならぬ人の身であるという自覚、神様に手を引いてもらわなければもう動けないという自覚、そこが自分のこの肉眼を潰した時なんですね、そして神様に手を引いて貰わなければ、動けんのである。そこから勘が強うなる、そこから開けてくるところの心の目が、私はいよいよ徳の世界と言いますか、次元の世界とでも言いましょうかね、信心頂かして頂く者だけが頂けれる世界に住まう事が出来ると私は思うのです。
      どうぞ